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Channel: バイクのカタログハンター日記
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1973年。奇妙で微妙な境目の年だった。

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1973モトレヴュー誌の「Salon 73」が手に入った。
1973年といえば私ゃまだ生まれてなかったので、当時のことは覚えていない。だからぜーんぜん知るわけがないが、ただひたすら懐かしい。
CBの4気筒のマフラーが集合化する前。カワサキはZ1Z2。もちろん750SSもあった。ヤマハは2気筒のTX750が、スズキはまだGT750という時代。
ヤマハのYZR500、TZ700のトップブリッジから斜めに切れ込んだフレーム、肝臓みたいな3角のタンクが衝撃的だったことを覚えている。(もちろんまだ生まれてはいなかったので知るわけがないが、なんとなく、なんとなくそんな気がする)と私はしつこい。

グッチはV7スポーツの時代。MHR風ビキニカウルがついた850タイプルマンというものが興味深い。ちなみにフランスでは「モトグッチ」ではなく、単なるグッチ(Guzzi)としてGの順番に紹介されていた。

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一方、ドカの場合750SSはイモラレプリカのあの形そのものだが、750Sはネイキッドではない。ビキニカウルにZライン、シングルデスモは黄色ではなくシルバーのみ。

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「1973年に何が起こったか」思い返しても大した出来事は思い出せない。生まれてなかったというのは冗談だけど、その前後の時期をよく考える。73年以前と以降では文化的な状況、環境ががらりと変わっている。
1973年は文化の節目だったのだ。ちょうど古いものと新しいものとが混在両立する「時代の境目」といっていい。

オイルショックだのトイレットペーパー不足だのの出来事は1973年に実際に起きた。ガソリンスタンドも休日休業になったし、そりゃあ新聞やテレビの中では彼ら主導で緊縮体制に向かってはいた。
しかし脳内の記憶はこの年を境に、それまでのモノクロから天然色に変化している。生活は下降変化どころか、明暗の調整ボタンを2段階上げたように明るくなった。コントラストも強くなった。
写真の印画紙とテレビ画面がカラーになっただけかもしれないが。

しかしオイルショックはバイク業界に対し、直接的な印象を与えた。
この時代バイク、あるいは4輪の生産中止だの××から撤退だののネガティブな話題には必ず「オイルショックのため」の枕詞がつけられたせいだ。

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上はヤマハのRZ201ロータリー(1972)と水冷2スト4気筒GL750(1971)。前前年のモーターショーでのGLナナハンのきらびやかなデビューがあった。
翌年のヤマハロータリーは市販化されなかった。理由は後々「オイルショックのため」とされているが、具体的になぜかが分からない。
この派手な2車と対照的に地味ぃなTX750が世に出たことがこの時代っぽい。

新宿中心の文化に対し原宿・渋谷がおしゃれになり、貧乏礼讃の4畳半フォークの反対側には井上陽水、荒井由美の両方がいて、トラッドな演歌系歌謡曲と能天気なアイドルたちが音楽界には両立していた。凮月堂で渡されたフライヤーには「村八分vsキャロル」と書いてあった。

サーファーの連中がぽつぽつ現れたのは1973頃だった。
彼らが現れたのはもっと遅いだろう、と思うかもしれないがこれは本当だ。
僕の目撃したのは70年代初頭に向こうに行って感化されてきた「金持ちのお坊ちゃんたち」アメリカ西海岸帰りの連中だ。揃って潮焼けで毛先が痛んだロン毛、アロハの5~6人を見た時、全く異質な人種を見た気がした。そのうちの1人は当時の僕のロン毛をうらやましがり、「いいなあ、向こうに行ったらみんな髪が長くって」と言っていた。
※wiki には「サーファーファッション」は1970年代後半からだと書いてある。

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ヤーノサーリネン
1973年のヤマハのエース。金谷とのコンビで破竹の勢いを続けたが、多重クラッシュにあい残念な結果に。
その時代のレースを知るある人はもの凄い才能を持った人だったとだけ話してくれた。もし彼が生きていればという話も何度か耳にしたが、そんな話はまさに無意味だ。
結果、わずかに記録に名前だけ残されて、それしか後世には伝わっていない。僕もこの時代全くレースには興味なかったから、彼の名もその存在も最初からまったく記憶にはない。
実際僕がリアルタイムで覚えているのはバリーシーンあたりから。MVら4スト勢が消え、まさに国産の2スト全盛期。

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エルシノア。
この間近所の洋服屋さんの前に置いてあったのを見た。
いやぁ格好いい。自分にとってこれが2ストなのか4ストなのかは大した問題じゃなくて、目で見たもの耳に聞こえたものだけが大切なのだと知った。この価値を知るのに40年かかったわけだ。

ベトナム戦争パリ和平協定が1973年。その翌年僕は横須賀でDJ(ただの皿回し)をしていた。米軍の撤退。サイゴン陥落まであと2年。戦地から休養で横須賀に戻り、戦地ではなく日本で酒の飲み過ぎで死ぬ兵隊もいた。賭をして。
この頃のバイク状況は今思い返すともっとも面白いと思う。
しかし夜の街で見聞きするものがあまりに刺激的だったので、バイクへの興味が薄れていった。
ケンメリのモデルだった初代「ケン」のほうは僕のバイト先の前任者だったらしいのですが、バイク事故で死んだという噂を聞いた。
「ロボットハンドル」だったそうです。
バイト先の経営者とは親しかったので、いつかは彼の詳しい話を聞こうと思っていましたが、その経営者も事故で最近死んじゃったと聞いた。

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